Merry merry Christmas.




    §


 なあ、神様って信じてる? なんとなく? やっぱりなんとなくか。そうだよな。お前、日本人だもんな、って俺もだけどさ。でも、俺は神様は存在しているって思ってるんだ。別に、神様が見えるってわけじゃないぜ? 違うって、別に宗教にはまったりなんかしてねぇって。俺はさ、不可知論者だから。不可知論。知らない?
 不可知論てのはさ、神様はいるかもしれないけれど、それを人間は感じることはできないってこと。よくいうだろ。外国じゃ、無神論者は嫌われるから、神様を信じてなくても、不可知論者だって言っとけって。覚えといたほうがいいぜ。
 でもさ、俺はそういう消極的な不可知論者じゃなくて、積極的な不可知論者なんだ。にもかかわらず、っていうか、だからこそっていうか、運命論者でもある。そう、俺、運命って信じてるんだよ。
 なぜかっていうとさ、お前、決定論って物理哲学知ってる? ラプラスの悪魔とかさ……知らないか。たとえばさ、この世の中は、すべて物理法則にしたがって動いているわけじゃん。ボールをひとつ、他のボールにぶつけたら、それぞれがどんな動きをするかっていうのは、最初にどんなスピードと角度でボールを投げたかがわかれば、予測することができる。ってことはさ、今この瞬間の、全宇宙のすべての物体の動きがわかれば、どんな未来だって予測できるはずだ。そりゃ、そんな、すべてを知ることなんか不可能だよ。でも逆に言えばさ、俺たちがすべてを知ろうが知るまいが、未来は決まっている。それが、決定論ていうやつなんだ。
 だけどさ、それは量子論て理論に否定された。不確定性原理っていってさ、すごく小さい、分子とか原子とかよりも小さな、素粒子ってレベルだと、それがどこにあって、どんな動きをしているのかって言うのが、確率的にしかわからないっていうのがわかっちゃったんだ。
 これは知ってるんじゃないか? ドラマにもなったしさ。「神はさいころを振らない」って。これはアルバート アインシュタインて人が、そうそう、あっかんべーしてる人、そいつがさ……そいつって言っちまった。まあいいや、その人がさ、不確定性原理にむかついて言った言葉なんだ。神の創りたまいし世界が、そんな偶然に頼ったような頼りないものであるはずがない、ってことだと思う。でもさ、いろんなことが、その不確定性原理に基づいて考えると、いろいろすっきりするんだよな。ていうか、それがないとうまく説明できないんだ。お前の持ってるケータイなんかも、この原理に基づいた量子論がなかったら、できてないんだ。
 面白いよな。科学ってのはさ、進歩したらいろんなことができるようになるんだって思うだろ。そのケータイだってそうだし、宇宙旅行も金さえあればできるようになったし。でも逆なんだよ。科学が進歩すればするほど、人類に出来ないことが増えていく。いや、そうなんだって。
 量子論とかカオス理論が生まれて、人は未来の予測が出来ないことがわかってしまった。
 それに反対したアインシュタインが作った相対性理論のせいで、人は光の速さを越えて旅をすることができなくなった。イスカンダルまで一年で行って帰ることなんか、絶対に無理だってわかってしまった。……ヤマト、知んない? いや、なんでもない。
 その前のニュートンの時代でもそうだ。太陽の周りを回る惑星の動きを、正確に予測することができないことが証明されてしまっている。
 科学が進歩するにしたがって、出来ないことばかりが増えていく。もちろん、進歩する前はもっと出来ないことが多かったんだけどさ、でも、何でもできるかもしれないって、きっとみんな思ってたんだよ。だけどそうじゃない。それってさ、やっぱなんか悔しいじゃん。世界に対して、俺たちがそんなに無力だなんて。
 だから俺は、神様がいるって信じてる。いや、信じたいんだよな。べつに、ヤーウェとかアッラーとかそんなんじゃなくてさ、別に世界を七日間で作ってなくてもいいからさ、たとえ、俺の想像の中だけの存在だとしてもさ、その神様には、未来がわかるし、ブラックホールに落ちたものを拾うこともできる。そんな存在があって欲しいって思う。いや、いるに違いない……



「でさ、そのプチうんちくをひらけかしたいだけのために、わざわざこんなところを予約したってわけ?」
 さっさとディナーのコースを平らげて、飲み慣れないワイングラスを片手に熱弁をふるう俺を、プチトマトを串刺しにしたフォークを左手で振り回しながら、美月がジト目で睨んでいた。やべぇ。クリスマスだからと柄にもなく奮発したレストランの雰囲気に緊張しちまったのかな。まだボトル半分も空けてないのに、つうか、そのほとんどを美月が空けているのに、酔いがずいぶん回ってる。すこし落ち着こうと、グラスを口に運ぶ。うめぇ。高い金ふんだくるだけのことはある……って、飲んでどうする。
「違うって。俺が運命を信じてるっていうのをさ、うん、説明したかったんだ」
 あわてて弁解する俺を尻目にプチトマトを口に放り込むと、ウェイターが皿を下げる間に、グラスに残ったワインをゆっくりと飲み干した。やばいなぁ。こいつ、酒乱の気があるんだよなぁ。
「でもさ、運命を信じてたら、つまんなくない? 何をやったって未来は決まってるって、そんなんじゃ、何もする気になれないじゃない」
 お、まだ大丈夫か。ふっとため息をついて髪を書き上げる美月の目の下が、ほんのりと染まっている。すこしその目が座っているような気がしないでもないけど、それ以上にいろっぽい。わお。
「お前、映画観るのが好きだろ?」
「好きだよ?」
「映画って、映画館にかかってる時点で、もうラストが決まってるだろ? つまらないか?」
「つまらなかったら観ないわよ」
「だろ? たとえ運命によって未来が決まっててもさ、神様がそれを知っててもさ、俺たちにとっては全部が始めて観るシーンなんだ。だから、運命を信じたところで、別につまんなくないさ」
「そんなもん……かなぁ」
 んんん、とうなりながら、美月は左手に持った空のグラスを睨みつける。負けず嫌いの彼女にとって、言い負かされそうになっているのが気に入らないらしい。普段ならこれくらいで言葉につまるような彼女ではないのだけれど、やっぱりワインと雰囲気に酔いかけているのだろうか。その様子を勘違いしたのか、ソムリエが寄ってきて、どうぞ、とワインをサーヴしてくれる。美月はあわててグラスを差し出して、あ、どうも、すいませんなんて言いながらへこへこする。わはは、かっぺ丸出し。吹き出しかけた俺を渋い中年ソムリエはじろりと睨んで、テーブルから離れていった。うん、女性に恥をかかせてはいけないね。反省。
「でもさぁ」ワインを一口飲んで、美月。「何度観ても面白い映画もあるわよ」
「それはまあ、人それぞれ、人生それぞれさ。何度見たってストーリーが変わるわけじゃない……っていうか、そういう話をしたいわけじゃなくてさ」
「じゃあ、なによ」
 俺は、キャンドルの影が揺れるテーブルにグラスを置くと、ネクタイを直す振りをしながら、ポケットの中身をそっと確かめた。小さな四角い感触が、ポケットの上から掌に伝わる。これからが本番だ。ちらりとボトルのワインに目をやって、やっぱり断念する。祝杯用に残しておかないと。
「だからさ、俺と“君”が出会ったのも、こうして付き合うようになって、愛し合っているのも、運命だったんだ!」
 店内に流れる静かなクラッシック音楽が、ついにクライマックスを迎え、盛大に鳴り響く!
「……」
 が、どうやらそれは幻聴だったらしい。動きをとめた美月の眼が、じーっと俺を見ている。うわぁ。あれは多分、笑ったらいいのか馬鹿にしたらいいのか聞かなかった振りをすればいいのか迷っている目だ。
「で、でさ」
 俺は予定をすこし変更して、あわててポケットに手を突っ込んだ。本当は、手を胸か頬に当てて、瞳をうるうると潤ませた彼女が、そうだったのね! なんて感動に浸ったところで出すはずだった小箱を取り出す。……って、もしかしたら俺は馬鹿だったのかもしれない。一人で妄想を膨らませて盛り上がって浮き上がるのは、俺の悪い癖だ。癖……なのか? まあいいや。
「美月。これを受け取って欲しいっとと」
 あわてたせいかワインの酔いのせいか緊張したせいか、俺の手から勝手にこぼれ落ちた小箱が、こんころこんと音を立てて転がって、ちょうど美月の目の前でとまる。しらけた目で、彼女がそれを見下ろす。ああもう、なんかいろいろやり直したい。
「ふーん」テーブルの上に突っ伏した俺の上から、美月の声が振ってくる。「ねえ、開けていい?」
 なんか、その声がかわゆくなった気がして、俺はそっと顔をあげ、上目遣いで美月を見た。赤いリボンをかけたその箱を、美月は左手に持って、じっと見ていた。復活のきざしっ!
「もちろん。そのために用意したんだ」
 彼女は、立ち直った俺の目を三つ数えるほどの時間覗き込んだ後、すこし微笑んで器用にリボンを解いた。包装紙を破らないように丁寧に広げ、深い青色の小箱の口を開ける。今だ。
「美月、結婚して欲しい――」
「やだ」
――それが、俺が信じる、ただひとつの運命なんだ。
「え」
 三日寝ないで考えたプロポーズの台詞の途中であっさりと拒絶されて、俺は身を乗り出したまま凍りついた。
 なんでだよ?
 冒頭の長台詞からこのプロポーズまで、完璧な流れだったじゃないか。だったよな? あ、いや、違うかもしれないけれど、でも、こいつと付き合って三年、あらゆる艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越えて、後はどちらが結婚を言い出すか、そんな感じになってたじゃないか。もしかして、それも俺の思い込みだってのか?
 だが、美月の台詞には続きがあった。
「って言ったらどうする?」
 美月は箱の中からリングをつまみ出すと、それを左手の人差し指の先っちょに引っ掛けて、くるくると回した。そのふざけたしぐさとは対照的に、彼女の目は真剣そのものだった。
「あんたってさ、何かうまく行かないことがあっても、あんまり落ち込んだりしないじゃん。すぐに笑って諦めちゃってさ」
 リングをぶら下げたままの左手でワイングラスをつかむと、中身を一気にのどへと流し込む。真剣なまなざしが、座ってくる。うう、怖いよ。
「付き合ってるときは、あんたのその性格が楽だったけど、でも、すこし不安になったりもするのよ。ねえ、いやだって言ったら、あんたはそれを運命だと諦める? いつもみたいに、まあいいやって笑いながらさ」
 うわ、絡み酒の前兆だ……思わずのけぞりかけた俺は、息を呑んだ。大きく見開き、俺を睨んでいる彼女の瞳に涙があふれ、そして頬を伝っていった。
「あたしは運命なんて信じない。あたしがあんたと出会って、あんたを好きになったこの気持ちが、運命で決まっていたなんて、そんなのばかにしてる。冗談じゃないわ――」


     §


 あたしがあんたに初めて会ったときのことは、はっきりと覚えているよ。あたしのバイクがダンプに巻き込まれたときに、救急車が来るまでずっとそばにいて、ずっと声をかけ続けてくれていた。あたしが事故ったときに、何台か後ろを走っていた、ただそれだけだったのにね。その両手も、顔も、あたしの血で真っ赤に染めて、あんたが怪我をしたみたいに泣きながら。自分でもおかしいと思うんだけどさ、そのときあたしは、なんか幸せだったんだよ。あたしのために一生懸命になってくれる人がいるって、あんたの声を聴きながら、そんなことだけを考えてた。後で先生にも聞いたよ。あんたの応急処置がなかったら、もしあんたが声をかけ続けてくれていなかったら、あたしは多分死んでただろうって。そりゃそうだよね。右手と右足がちぎれていたんだから。
 あたしが病院のベッドに縛り付けられているときも、あんたは何度もお見舞いに来てくれた。あんたがいなければ、あたしは右手と右足をなくしたショックから立ち直ることができなかったと思う。うん、きっとそう。
 あんたが来てくれる週末が、あたしは本当に待ち遠しかったんだよ? 仕事やなんかで来てくれなかったときは、本当に落ち込んでいた。
 啓子はさ、知ってるよね? 啓子。そう、その娘。そんなあたしを見て、あの人が、そうあんたのことよ、好きなんじゃないって教えてくれた。そうかもしれないって言ったら、運命の出会いじゃない、すごいね、なんて言った。
 あんたもそう思ってるのよね。あんたとあたしは、運命的な出会いをしたって。
 あんた今そう言ったじゃない。いまさらごまかさなくてもいいわよ。あたしだって、そう思ったもの。退院のとき、あんたも来てくれて、それであたしのことを好きだって言ってくれたときは、あたしは身体のことや将来のことなんか、みんな忘れるくらいに幸せだった。もうあたしには悪いことは起こらない、そんなことまで思ったわ。
 もちろん、そんなはずはないのにね。あたしはそのころ、ご飯を食べることも、着替えることも、お風呂に入ることも、トイレに行くことも、何もひとりではできなかった。働くどころか、ひとりで遊びに行くことすらできなくて。あんたがいなかったら、あたしも、あたしの世話にかかりっきりになってしまった母さんも、いつか壊れてしまっていたと思う。
 退院してしばらく、あんたに当り散らしてたことあったじゃない。覚えてる? もちろんそうよね。あれはさ、思い通りにならないいろんなことにイラついていたっていうのも確かにあったんだけど、あんたのさ、なんていうんだろ、困ったような少し悲しそうな、そんなちょっと首をかしげた表情があたしは好きなのよ、それを見ていたかったってのが本当なの。……嘘よ。そんな泣きそうな顔しないでよ。
 本当はね、あたしたちが出会ったのが運命なのだとしたら、あんたがあたしに出会うためだけに、あたしはこんな身体にならなけりゃいけなかったのかって、あんたに逢うために、あたしはこんなつらい思いをしなきゃいけないのかって、そう思ったら、あんたが無性に憎たらしくなって。あたしが事故に遭ったから、あたしはあんたに逢えた。だったら、あんたに逢わないでよかったのなら、事故にも遭わなくてすんだんだ。もちろん、そんなわけないのにね。
 でも、だからあたしは、運命なんて信じない。運命を信じている限り、あたしは、あんたと出会ったことを赦せない。理不尽だって解ってる。でもあたしは、そうなの。


「――それと、結婚がいやだっていうのと、どういう関係があるんだよ」
 和弥は、困ったようなすこし悲しそうな顔で、ちょっと首をかしげて、あたしに聞いた。話している間にずいぶん落ち着いたあたしは、その顔を見て吹き出しそうになる。そう、その顔が好きなのよね。
 あたしがわがままを言ったときに必ず見せるその顔。そして、彼はそのあと必ず笑顔になって、別のことにあたしの気をそらそうと話を変える。あたしはそれが不満だったけど、悪いのは自分だって解っていたから、たとえそれがこの身体のせいだとしても、彼が悪いのではないことくらい解っていたから。そんな彼だから、あたしはわがままが言える。
 空のグラスを、テーブルに戻す。人差し指にかけたままのリングが、グラスと触れて澄んだ音を立てる。
 こんな高級そうなレストランに、臆さず入れるようになったのも、和弥のおかげだ。慣れない左手一本で、あたしが料理を口に運ぶのに失敗してテーブルにこぼしても、彼は嫌そうな顔ひとつせず、それを拾って自分の口に放り込む。次は何をくれるのかなぁ、なんて笑いながら。そんなことを続けているうちに、あたしはテーブルを汚さなくても、食事ができるようになった。
「言ったじゃない。あんたが運命を信じている限り、あたしはあんたを赦せないって」
「あぁ、だ、だからさ、俺が運命を信じてるって言うのはそういうことじゃなくてさ」
 うん、解ってる。この人がそんなつもりで運命なんて事を言い出したんじゃないことは。酷いことを言うようだけど、彼はそんなことまで気が回るような頭のいい人じゃない。あたしを助けてくれたのも、その後お見舞いに来てくれたのも、ただお人よしだったから。人の悪意に鈍感で、人が喜んだら自分も嬉しくなって。
 そんな彼が世間をうまく渡っていけるはずもない。それは彼のよれよれのスーツや、あたしの指先に引っかかっている安っぽいリングを見ればわかる。彼は仕事のことをあまり話したがらないけれど、きっと会社でもいいように使われているんだろう。
「あんたがどういうつもりで言ったのかは知らないわよ。でも、あんたはあたしのことをぜんぜん解ってくれていない。それなのに結婚しようなんて、とんでもないわ」
 こんな日の夜だから、店は幸せそうなカップルでいっぱいだ。もしかしたら、このうちの何組かは、あたしたちのようにプロポーズしたりされたりしているのかもしれない。そしてあたしは――
 もし彼の申し出を断れば、彼があたしの前からいなくなれば、二度とクリスマスの夜を楽しむことはなくなるだろう。それでもいい。今でさえぎりぎりの彼の生活に、あたしのような重石が加われば、きっと彼は潰れてしまう。
「なあ、美月……」
「大体なんで、あたしなんかと一緒になりたいわけ? あたしと一緒に暮らして、どんないいことがあなたにあるわけ? そりゃ、あたしはあんたのおかげで、自分のことは何とかできるようになったわよ。ご飯だって食べれるようになった。お風呂でおぼれることもなくなった。着替えを手伝ってもらわなくてもよくなった。でも、それが精一杯。あんたには本当に感謝してる。命を助けてくれた、生きていく希望をくれた。もう十分。あたしにあんたは必要ない。あんたに、あたしが必要じゃないのと同じようにね」
 ああ、言っちゃった。でもさっぱりした。多分、この人の重荷になってしまう、その思い自体が自分にとって重荷だったんだろう。それはきっとあたしのせいじゃないはずだ。こんな身体になったのは、あたしのせいじゃないはずだ。だとしたら、それは運命のせい。そうに違いない。
「違うんだ」
 だけど和弥は、首を振った。彼は、いつものように笑った。
「何が違うのよっ!」
 無意識に叩いたテーブルの音が、店内のざわめきを一瞬だけ奪う。周りのみんなが、あたしを見ている。かまわないわ。本当にイラつく。ここは笑うところじゃない。あたしじゃなく、この人があたしを怒鳴り、なじり、怒って席を立つ場面なのよ。じゃないと……
「俺が運命を信じてるのはさ――」
 まだ言ってる。その笑顔にイラつきながら、でもあたしは目を離せない。だって。
「うまくいかないことを運命のせいにするためじゃないから。お前が事故ったせいで、俺たちは知り合った。勘違いするなよ。事故のおかげじゃない。事故のせいで、だ。俺は、いくらでもお前から離れる機会はあったよ。ほかのやつらのように、倒れたお前の横を知らん振りして通り過ぎてもよかったし、お見舞いなんかに行かなくてもよかったし、告白なんかしなくてもよかったし。そんなさ、いろんな決断を後悔しないためなんだ。だってそうだろ? 俺だって、結構ショックなんだよ。お前にもう必要ないなんていわれてさ。俺にお前が必要ないなんて言われてさ。だったら、お前を助けなけりゃよかった。お前を好きになんかならなきゃよかったって」
 彼の笑顔がなかったら、あたしはいつでも、絶望していたから。
「でもさ、俺が、お前が好きで、ずっと一緒にいたいっていうのは、後悔してもしかたがないだろ? だって、運命だったんだから。だからさ」
 和弥は、テーブル越しに手を伸ばして、あたしの左手を取った。
「だから俺は、お前にいやだっていわれたら、うんと言ってくれるまで、何度でも繰り返すよ。俺は神様じゃないし、神様の声も聞こえないから、未来がどうなるのかなんてわからない。そんなもの、やってみなけりゃわからない。そうだろ? だから――」
 あたしの人差し指の先からリングを抜き取って、薬指にかける。
「結婚しよう。それが俺の、運命という名の選択なんだ。俺は、お前を失って、後悔したくない」
 本当にばかなんだから。あたしはこれ以上泣き顔を見られたくなくて、顔を伏せた。それが、この人に頷いているように見えるかもしれないということは、解っていたけれど。だってしかたがないじゃない。あたしの左手はこの人に握られている。あたしの肩しか残っていない右手では、涙をぬぐうことなんてできないんだから。
「ありがとう」
 和弥はそう言って、リングをはめ込む手に力を入れる。きっと彼は笑っている。それを見たくて、あたしは顔を上げた。のだけど……
 どうして顔が引きつっているの?
 あたしの左手を握ったままの彼の手を見る。リングは薬指の関節で引っかかったままで、それ以上奥に入ろうとしない。
「え、と。美月って指輪のサイズ、いくつだっけ……?」
 あたしは自分の左手を取り戻すと、黙ってグラスにワインを注ぎ、それを一気に飲み干した。それをテーブルに叩きつけると、祝杯がぁ、なんて言ってる和弥を置いて、車椅子のレバーを操作し、席を離れる。
 あたしは運命なんて信じない。だけど、後悔はもう、しない。事故がどうとか関係ない。今、この人が私の横にいる。
「結婚指輪は十号にしてよねっ」


    §


 星の代わりにイルミネーションの光が降り注ぐ歩道の上を、恋人たちはゆっくりと進んでいた。
 女は、電動の車椅子に座り、男はそっとそれを押していた。
「ねぇ」
 女の声に、男は足を止め、背もたれ越しに顔を寄せる。
「あたしは、やっぱり神様を信じているよ。恨んだこともあるけどね。でも、今は感謝してる」
「俺たちをめぐりあわせてくれたことに?」
 女は、左手を男の頬に延ばして、そっと引き寄せた。薬指の途中で止まったリングが、イルミネーションを反射してきらきらと輝く。
「ううん。そうじゃない」
 女の火照った頬が、男の冷たい頬と触れ合う。心地よさそうに、女は目を閉じる。通り過ぎる人々の楽しげなざわめきと、絶え間なく続くジングルベルが、二人を包み込む。
 人々の微笑が、街を純白に輝かせる日。


 Merry merry Christmas。



(雪がひらひらと舞い落ちる前に―― fin ――)
イルミネーション
( Photo by (c)Tomo.Yun )
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