いろをきかせて


 肩に当てたバイオリンのA線に、ゆっくりと弓を当てた。
 チューニングマシンの針が、ちょうどAの目盛りを指す。
 当たり前だ。たった今調律したばかりなんだから。
 俺は目を閉じて、エチュードを奏で始めた。幼いころから、ウォーミングアップ代わりに何千回も弾いてきた曲。
 もしかしたら歩くよりも簡単に弾けるその曲を、指先に神経を集中し、一音一音、丁寧に追っていく。
 そして、最後の音。C。
 弓の動きを止めないまま、目を開く。
 チューニングマシンの針が指差すのは、Cの目盛りよりもほんの少しだけ左側。
   赦しがたいほどの、音のずれ。
 ――ちくしょうっ!
 俺は叫んだ。
 叫んだはずだ。
 大きく息を吸い、のどに力をこめて吐き出したんだから。のどの痛みすら、感じたのだから。
 だけど、俺の耳には、その声は届かない。
 いや。俺の声なんか届かなくったっていい。
 こいつの、このバイオリンの音さえ、届いてくれれば。
 再び弦に弓を当てて、力を振り絞って弾く。のこぎりを引くように。
 初心者だって出せないような悲鳴を、俺のバイオリンは上げているはずなのに――
 俺の耳には、届かない……


 俺はマンションの部屋を出た。防音設備の整った、俺も通っている音大の関係者ばかりが住んでいる一棟。
 ほかのやつらはクリスマスコンサートの準備に忙しく、知り合いと鉢合わせする可能性がないのが救いだ。もっとも、声をかけられたとしても、俺は気づくことはできない。だから、誰か友人を無視してしまったかもしれない。かまわないさ。
 一階の集合ポストの差込口から、幾枚かの紙切れがはみ出ていた。
 何気なく引き抜く。
『おーい、なにやってんだよ。教授かんかんだぜ』
 しったことか。
『コンマス、あたしがもらっちゃうよ』
 勝手にしろ。
『何でケータイの電源切ってんだよ』
 充電してないだけだ。どうせ鳴っても聞こえない。
 雑巾を絞るようにそれらをねじり、もう一度ポストに突き刺す。
 しかし、こみ上げる感情を殺すことはできなかった。
 たまらなくなって、外へ走り出る。
 小気味のよいスタッカートを刻んでいるはずの靴音も聞こえない。
 すぐ横を通り過ぎる車の音も、もしかしたら鳴らされたかもしれないクラクションの音も聞こえない。
 息のきれる音も、激しく打つ心臓の音も、頭の血管を流れる血の音も。

 

 いつの間にかたどり着いた河川敷の公園。いつも数人の音大生が、思い思いに練習しているこの場所は、珍しく静かだ。
 そう思った瞬間、笑いがこぼれた。笑い声もしたはずだ。俺の耳に聞こえないだけで。
 静かなのは、誰も練習していないからではない。俺の耳が聞こえないだけだ。
 なんだよっ、くそっ。
 なんだよっ、たかが、風邪ひとつ引いたくらいで。
 おたふく風邪って、タマが腫れるだけじゃないのかよ。
 なんで耳が、なんで、よりによって、この俺の耳が、聞こえなくなるんだよ。
 風が吹く。何の音も立てないままに。
決して望んだものではない静寂が、俺を包む。
 いや、俺の中に住む静寂が、世界を侵す。
 ほかのやつらには、何の影響も与えないままに。
 ふざけんなっ!

 どれくらい、公園のベンチに座っていたのだろう。
 耳は聞こえなくなっても、腹は減る。腹の虫の鳴く声は聞こえなくても。
 激情が去ってみれば、後は寂しさと不安が残る。
 人生とは、バイオリンのことだったのに。俺は今から、何をして生きていけばいい?
 帰るか。
 どうせ学校にはいられない。
 お袋は泣くかな。俺以上に、俺がバイオリニストになるのを楽しみにしていた。
 親父は何と言うだろう。
やっぱり帰ろうと顔を上げたその先に、一組のカップルが歩いているのが見えた。
 男は、カンバスやイーゼルを抱え、髪を伸ばして画学生っぽい。俺も絵の道に進んでりゃあな。こんな思いをすることもなかったのに。
 女は、白い杖をつき、目を軽く閉じて……
 なんだよ、絵描きの彼女のくせに、目が見えないのか。よっぽどあの男、絵が下手なんだな。
 くそっ。どうせつぶれるんなら、耳じゃなく、この目だったら良かったのに。
 そんな俺の視線に気づいたのか、男が俺に軽く頭を下げた。そのせいで立ち去るきっかけを失う。
 急いで帰ることもないか。
 絵描きが目の見えない彼女と、どんな会話をするのか興味もある。
 ……どんなに興味があっても、二人の会話は、俺には聞こえない。
 はっ、くだらねぇ。
 だけど何かが気になって、二人の様子を伺い続けた。
 女が肩に下げたかばんの中身。あれは、画材じゃないのか?
 あの男は、自分の画材を、目の不自由な彼女に持たせるようなやつなのか。
 そうはみえない。
 にこやかに口を動かしながら、彼女の足元に向ける、さりげない目配り。どんな小さな小石、どんな些細な段差も見逃さないような。
 だけど俺の目の前を通り過ぎたとき、テレピン油の匂いをさせていたのは、トレーナーにジーンズ姿の、女のほうじゃなかったか?
 まさか、な。
 だがやはり、道から少し外れた場所に立てたカンバスの前、広げた折りたたみ椅子に腰を下ろしたのは、女のほうだった。
 まだ、何にも書かれていない真っ白なカンバスに、画面全体を撫でるように、細い指を這わせる。
 ひざの上に広げた絵の具箱の中から手探りでチューブを取り出し、蓋を開けて匂うように鼻先に持ち上げる。
 パレットも絵筆もパレットナイフも使わずに指先に絞りとり、下絵もないカンバスに塗りつけてゆく。
 画面に白い顔をくっつけるようにしながら、少しずつ、少しずつ、色の領域を塗り広げてゆく。コバルトが画面の上半分を占めるころには、俺は亜麻仁油の匂いに取り囲まれていた。意識しないままに、俺はベンチを立ち上がり、彼女のすぐ後ろまでやってきていたのだ。
 そのとき目の端で、男が俺に顔を向けたのが見えた。その口が、ものを言うように動いている。
 もちろん何かを言っているはずだ。俺はあわてて首を振った。
――俺、聞こえない、耳。
 くそっ。なんだって、こんな片言を。耳が聞こえないからって、言葉まで奪われたわけじゃないのに。
 だけど、その言葉さえ俺の耳には聞こえない。男が二、三度うなずいて初めて、ちゃんと声を出せていたのだと分かる。
 男はスケッチブックを開くと、そこに言葉を書き始めた。
『何か、御用ですか』
 俺は首を横に振りながら、それでも、問う。
――彼女、目が見えないんじゃないのか?
 女が、色を塗る手を止めて、俺を振り仰いだ。声で、俺の位置の見当をつけたのだろう。だけど、その透明な瞳は、俺のずっと後ろを見ているようだ。視線だって、間違いなく俺からずれている。
 その彼女が、うなずいて笑った。青い絵の具がついた頬に、小さなえくぼができた。
――なんで絵なんか描いてるんだよ。
 女の口が言葉の形に動く。
 それを男が、スケッチブックに書き取る。
『絵が、好きだから』
――だって、目が見えないんだろ?自分の絵だって。
『誰かが、見てくれる』
 俺は、カンバスを指差した。まだ青が塗られただけの、ムラだらけのカンバス。
――こんな、へたくそな絵をか? 恥ずかしくないのか。
 女の顔が、困惑の色を浮かべる。
 腕をつかまれた。
 男が、怒りを眉に見せて、俺をにらんでいた。
 その口が、動く。
 聞こえなくても、何を言っているのか解った。俺を責めているんだ。
――ごめん。
 俺はうつむいた。汚れたスニーカーをはいた自分の足と、枯れかけた芝だけが見える。
 音がないと、世界はこんなにも狭い。
――だけど
 俺の思いはとまらない。それが俺の口をついて出ていても、俺にはわからない。
――俺はバイオリンを弾いていたんだ。来年には、ロシアへの留学も決まっていた。それなのに……
 女を、その横のカンバスを、にらむ。
――へたくそな演奏を人に聴かれるなんて、俺にはとても我慢できない。
 女は顔を悲しみの色に染め、絵の具に汚れた手を、そっとイーゼルに伸ばした。二、三度空をつかんだ後、やっと、届く。
 いまさらな罪悪感が、俺の心を引っかいた。だけど、その想いが吐き出される前に、さらに強く腕を引かれる。意外なほど強い力に男の怒りが現れているようで、振り払う間もなくベンチの前まで引きずられた。そしてそのまま座らされる。
 その激しさに、ぶん殴られるかと一瞬覚悟した。だけど、見上げた男の顔は、女と同じように、とても悲しげだった。女に向かって何事か口を動かし、俺の横に座る。
 女は、憂いの色を頬にのせたまま、カンバスに向き直った。ただなんとなく、それを見つめていた俺の視界を、スケッチブックがふさぐ。
『僕は、真庭英一郎。あんたは?』
ほとんど殴り書きの自己紹介。
――あのコは、あんたの彼女か?
 『あんたは』の文字が、ぐるぐると鉛筆の線で囲まれて、もう一度突きつけられる。なんだか、そんなやり取りが楽しくなって、俺も名乗った。どこか、バランスが崩れてしまっているのが、自分でも分かる。でも、どうしようもない。
――大海恭一。
『あんたは、音大の学生?』
 なんだよ、名乗らせといて、あんた呼ばわりか。って、俺もか。
――彼女は?
『真庭綾』
――なんだ? 夫婦?
 スケッチブックに、またぐりぐりと。
――そだよ。音大生だ。で?
『妹だ』
――ふーん。で、絵のお上手な妹のお守りか。大変だな、お兄ちゃん。
 スケッチブックが、ぱらぱらとめくられる。ちらちらと見えるのは、モノトーンのデッサン画。美術の教科書に載っているようなやつだ。あのコに描けるとは思えないから、こいつも絵を描くのだろう。
 だけど、こいつが俺に見せたいのは、そんな絵じゃなかった。
 スケッチブックの表紙の裏に貼り付けられた、一枚の絵はがき。
 構図はたぶん、ありきたりなものだろう。川があって、土手の上に木が生えて。ディテールも、はがき大に縮小されているせいで潰れてしまっている。
 それにもかかわらず、俺は目を奪われた。
 その色!
 どぎついまでにビビッドな、その色彩。
 俺は音楽家であって、画家じゃない。絵のよしあしなんかわからないし、色の名前も知らない。だけど――
 その空の青は青じゃなく、その木の緑は緑じゃない。しかし、個性的な楽器の音色を、優秀なコンダクターがオーケストラの響きに昇華させるように、その絵はすべての色を飲み込んで、光を放っていた。
――これを、あいつが?
 その問いに答えるためにめくられるスケッチブック。絵はがきが隠れてしまうのが、惜しい。
『二年前の作品なんだ。展覧会で入選も果たした。親が馬鹿みたいに浮かれて、絵はがきまで作って』
――目は?
『もちろん見えていた。視神経に腫瘍が見つかったのは、去年の話だ』
 鉛筆を持つ手が、小さく震えていた。
『手術をして、あいつは光を失った。だけど、あいつは絵をやめなかった。音を失ったあんたに同情はする。だけど、それでバイオリンを弾けないなんて言うあんたに、あいつの絵を侮辱する権利はない』
 俺はベンチをそっと離れ、無心に色を塗り伸ばしている女の後ろに立った。背後から照らす太陽が俺の影をカンバスに落としても、彼女は気づかない。
 ああ、この場所なんだ、あの絵葉書に描かれていたのは。記憶の中にある色を、このカンバスに写そうとしているんだろう。だけど……
 青いだけの空に、緑なだけの木々。その位置関係もめちゃくちゃだ。彼女が描きたいのは、こんな絵じゃないはずだ。それを自分の目で見ることができないのは、かえって幸せなのかもしれない。
――ごめんな。
 無意識に口をついて出た罪悪感が、彼女の手を止めさせた。いいの。そんな形に、口が動く。口元に絡みついた髪を、掻き上げる。指の絵の具が、彼女の頬にまた、色を残した。優しい緑。
 彼女の口が、続けて動く。読み取れない。だけど、横からスケッチブックが差し出された。
『あなたのバイオリンを聴かせて』
 俺は首を振った。だけど、それでは伝わらないことに気づいて、のどに力を入れる。
――だめだ。バイオリンだって、持ってきてないし。
『わたし、しばらくここで描いてるから』
――わかった。
 二度と来るつもりはなかった。その時は。

 その日の夜と、次の日、そしてまた次の日は、ずっと、部屋にこもっていた。バイオリンを始めてそれに触らなかった日は一日もなかったのに、それが続けて二日。
 さらに次の日、我慢できなくて、バイオリンを手に取った。狂った音を誰もいない部屋で響かせるのはいやだ。でも、あの兄妹にだったら、聴かせてやってもいいかもしれない。そう思って玄関を開けたら、雨が降っていた。
 バイオリンが弾きたかった。俺には聞こえなくても、誰かに聴いてほしかった。彼女の気持ちが、少しわかった気がした。
 そして今日、チューニングマシンを使って、必要以上に調律した。だけど、なぜか気後れして、ケースに入れたバイオリンを持って外に出たのは、もう昼をずいぶん回っていた。
 あの場所には、四日前と同じように、イーゼルが立っていた。女――真庭綾がその前に座り、その横には、兄の英一郎が腰を下ろして、スケッチブックを開いていた。近寄りがたくて、少し離れたベンチでケースを開く。
 まず弓を締め、松脂を塗る。そしてバイオリンを肩に乗せ、あごではさむ。いつもならペグに手を伸ばして、二、三度音の調子を見るのだが、どうせわからない。省略。その代わり、目を閉じた。
 世界が、消えた。
 コンサート直前のホールのような、いや、しわぶきひとつ、スコアをめくる音ひとつしない、完全な静寂。大きく息を吸った。その音さえ聞こえない。
 弓をそっと弦に乗せる。弦の振動が、ブリッジから響板、あごあてへと伝わって、あごの骨を、さらに頭の骨を震わせる。
 以前は音に隠れて気にもしなかったその振動に意識を集中しながら、いつものエチュード。しかし、幼いころ苦手だったフレーズを過ぎたところで手を止めた。同じところをもう一度。そして、さらにもう一度。
 音が違う。音色はわからない。でも、音程がずれているのが、骨を通して分かった。耳が聞こえていたときには、無意識にポジションを修正していたのだろう。今また、振動という感覚によって、それができる!
 続けて、ゆっくりとしたエレジー。体に伝わる振動を確かめるように、ことさらゆっくりと。その曲調とは裏腹に、俺の心は浮かれていた。
 なんだよ、弾けるじゃないか。
 あのベートーベンは、聴力を失った晩年、口にくわえたタクトをピアノに当てて、その振動で音を聞いていたという。
 だったら、俺にだってできるさ。
 うれしくなって、曲を変えて弾き続ける。軽快な小品から、重厚なレクイエムまで。指が覚えている限りの曲を、次々と。
 目を閉じて、独りぼっちになった世界の中、バイオリンの振動だけが俺の身体を満たしてくれる。弾いているうちに、音の高低だけでなく、強弱やビブラート、もっと微妙なニュアンスまで感じられてくる。もちろん、完全じゃない。でも、この感覚を磨き続けていけば。
――うわっ?
 突然、何かにぶつかった。柔らかくて温かい。しかし俺は、演奏の邪魔をされたのが腹立たしくて叫ぶ。
――なんだよっ、くそっ。邪魔すんなっ。
 目を開けてみれば、そこには英一郎に体を支えられた綾がいた。どうやら彼女にぶつかってしまったらしい。
――ああ、すまない。夢中になってて。だけど、聴いてくれたか?俺、弾けるんだぜ。
 だけど、二人の顔に笑みはない。なんだ、妬いてるのか?
 英一郎は、スケッチブックに何事かを書き付けて、俺に突きつけた。
『あんたの音には、色がないそうだ』
 俺はかっとなった。なんだよ、色って!
――ふざけんなっ。自分が絵を描けないからって、俺にまで嫌がらせかっ!?
 一歩踏み出そうとした英一郎の腕に、綾がすがり付いてとめた。その透き通った瞳が、俺のどこかを見ていた。
――くそぅっ!
 分かってる。もちろん俺だって。どんなに弾けたって。音を外さなくったって。どんなに練習を重ねたって。
 決して、耳が聞こえていたころの俺に及ばないってことは。
 俺は、俺の記憶の中の音を追いかけるしかないってことは。
 行き着く先は、たかが音大に通う若造の、拙いレベルでしかないってことは!
――分かってんだよっ。俺がバイオリニストとしてはお終いだってことはっ!!
 俺は、バイオリンのネックを掴むと、それを頭上に振り上げた。だけど、そいつをたたきつけることなんか、俺にできるはずがない。
――ちくしょうっ。
 俺はバイオリンを抱きかかえて、しゃがみこんだ。後から後から、涙があふれ出る。
――なんだってんだよ。いいじゃないかよ。今日くらい、俺にバイオリンを弾かせてくれてもよ。
 そんな糞虫のような想いが、俺の口からこぼれていった。かまやしない。
 どうせ、俺には、聞こえない……
 涙で半ばつぶれた俺の視界に、細いジーンズの脚が映った。黄や緑や白や、いろんな色で汚れたそれが、ゆっくりと折れる。そして、スケッチブック。やはり絵の具で汚れた細い手。その指につままれたパステルが、文字を‘描く’。その文字が歪んでいるのは、涙のせいだけじゃないだろう。
 まるで、字を覚えたての子供が書くような、手探りの言葉。
 めを……
 めをとじないで……?

『めをとじないで』
『わたしにみえない』
『いろをきかせて』

 俺は彼女の顔を見た。彼女の瞳が透明なのは、そこにどんな色も映すことができないからなんだ。
――でも、俺は……
 彼女の瞳の中に、俺が映る。色のない俺。世界が映る。色のない……
 す、と彼女が顔を上に向けた。俺も釣られて、空を見上げる。
 彼女には見えないはずの、
 彼女には透明なはずの、
 空の青色!
 俺は上を向いたまま立ち上がった。
 彼女には透明なはずの、雲の白色。
 俺は、辺りを見回した。
 彼女には透明なはずの、木の緑色。
 大地の茶色。ベンチの青色。コンクリートの灰色。枯れかけた芝の、昨日の雨で濁った川の、投げ捨てられたジュースの缶の、餌を探すスズメの、彼女の顔についた絵の具の――
 彼女には透明なはずの、この色彩に満ちた世界!
 忘れていた。
 彼女には見えなくても、この世界にはたくさんの色が満ちているように、俺に何も聞かせてくれないこの世界には、たくさんの音が満ちているっていうことを。
 ずっと抱えたままだったバイオリンの弦を、軽くはじく。ピツィカート。もちろん、もともと小さなその響きは、俺の耳には聞こえない。だけど、俺に届かないだけで、その音はこの広い世界の隅々にまで響き渡っているはずなんだ。その証拠に、綾の頬にえくぼができる。
 俺はバイオリンを肩に乗せた。A線に弓を当てて、軽くすべらせる。四百四十ヘルツの振動が、俺の骨に伝わる。目を閉じれば、それは俺の身体中を満たしてくれるだろう。
 だけど俺は、目を閉じなかった。空を見ていた。やっと思い出した。バイオリンと世界が共鳴する感覚。音がなくったって、それが失われたわけじゃない。
 気がつけば、俺の指は指板の上を踊っていた。何の曲かって? しったことか。今弾いているのは、空の色だ。Eの開放弦から山際に向かって少しずつ白む空を、指をスライドさせて。
 雲の色。一転してゆったりとしたアルペジオ。
 川の色。中音域を流れるように、ってそのまんまだな。
 大地の色。G線とD線の重音で、世界を支えるように。
 木の色。緑の葉がA線の上でビブラート。風に震える。
 川辺の手すりが日の光を反射する。ハーモニクス。澄んだ振動が、指の腹をくすぐる。
 弾きながら、転がる空き缶を蹴飛ばす。そのせいで指の位置がずれる。きっと不協和音だ。いいさ。潰れたコーラの缶の色。
 目に入る色を一通り音に変え終わると、今度はそれを重ねていく。いつの間にか俺は、演奏しながらステップを踏んでいた。仕方ないじゃないか。俺の頭は、ずっとバイオリンを支えているんだ。突っ立ったままじゃ、周りが見えないんだから。
 くるくると回りながら、俺は笑ってた。
 こんな気持ちでバイオリンを弾けたのは、初めて買ってもらった子供用のバイオリンから、初めてきれいな音を引き出せたとき以来だ。曲も何も関係なく、ただ嬉しくって、一日中弾きつづけた。
 そしてくるくると回りながら、俺は泣いてた。
 こんな気持ちでバイオリンを弾けるのは、きっと今日が最後だから。
 刻々と位置を変えていく太陽。色を変えていく公園の風景。それを飽くことなく音に移し変えながら、それでもついに、最後の音を弾いた。夕日と呼ぶにはまだ早い、橙色の太陽の色。
 デクレッシェンドを奏でる下げ弓が弦から離れ、そして余韻も消えた。俺の目の前には、椅子に座った綾と、カンバス。
 彼女は見えない目をカンバスに向けたまま、じっと動かない。俺もバイオリンを下ろし、彼女の後ろでうつむいたまま、立ち尽くしていた。
 荒かった俺の呼吸が、少しずつ収まった。まだ汗ばんだままの腕で、俺はやっと涙をぬぐう。ひりひりとするのどを、つばを飲んで潤す。
 綾の小さな頭が揺れた。危なげな足取りで、椅子から立ち上がり、俺のほうを向く。
 俺はやっと、顔を上げた。彼女の描いた絵が、見えた。
 しばらくその絵を見つめ、俺は舞台の上で演奏を終えたバイオリニストのように、深々と頭を下げた。
 今日が最後でもかまわない。
 だってその絵には、俺の弾いた色が、確かに描かれていたのだから。
 再び涙でにじんだ俺の視界に、パステルで描かれた文字が割り込んできた。

『ありがとう、いろをきかせてくれて』

 俺は、綾の顔を見た。色とりどりの絵の具を顔のあちこちにつけた彼女は、笑っていた。
 俺も泣きながら、笑った。

――ありがとう。あなたは俺に、音を見せてくれた。

 この絵のように、世界に音が満ちている限り、俺はきっと生きていける。
 色に満ちたこの世界を見るたびに、俺はそのことを思い出すだろう。
 


(fin)
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