マリオネットは納豆の糸で
「なんでそんなもの頼むのよ。ぶぁっかじゃないの!?」もちろん僕だってわかってますよ。“ばか”を“ぶぁか”って発音する女、いや、男を含めたって、そんな奴いないってことは。
わからないのは、なんで僕がそんな罵声を浴びせられないとならないのかってことで……
僕が頼んだのは、日本盛の熱燗二合徳利と揚げ出し豆腐、アボガドのサラダ、そして納豆巻き――
「それよ!」
……へ?
「なんで納豆巻きなんか頼むのよ」
いや、まあ、ナマチュウを一杯飲んだだけで顔を真っ赤にしてわめいている彼女は、父方も母方も兄嫁さんさえも酒豪ぞろいの中で育った僕にしたら、新鮮で、しかもとてもかわいくて、見てて飽きないのだけれども……
居酒屋で納豆巻きを頼むのに、それが食べたい以外のどんな理由が必要なのかは、僕のほうが聞きたい。
「あんた、この店出たら、どうするつもり?」
どうするって、帰るよ。
「あたしの家まで、送ってくれるんでしょ?」
まあ、もう遅いしね。
「で、別れ際に、いつもみたいにおやすみのキスをするでしょ?」
そうそう、キスまで持っていくのにどれだけ苦労したか……って、そんなことをそんな大声で。
「そのキスが、納豆臭かったらどうするのよっ!」
臭かったらって……じゃあ、彼女が頼んだニラレバやらオニオンサラダやら、ましてやにんにくの素揚げやらはどうなるんだろう。
「なによ。あたしの息が臭いっていうの?」
そんな、滅相もない。僕は君の臭いが、訂正、匂いがとっても好きさ。
「……まあ、においはいいわ。あたしも納豆のにおいは嫌いじゃないし」
うわ、照れてるよ、こいつ。かわいー。
「問題は、糸よ」
へ?
「キスをしたら、糸が引くのよ?」
いや……
「二人の唇と唇の間を、ネトーって」
そんなことは……だってまだ酒も飲むし、ここから彼女のワンルームまで、歩いて二十分はかかるし。
「あたし、べたべたするのって、いやなの」
いつも寒いってしがみついてくるのは、誰だっけ?
「あたしは糸引かないわっ」
引かなくて幸いだよ。僕もそんなに物好きじゃない。
「でしょっ!? 糸を引くなんて許せないわよねっ!」
あー、はいはい。
結局僕が二合徳利を四本空ける間に、彼女はソルティ・ドッグとモスコミュールとスクリュードライバーと、あとはブラッディマリーを半分だけ飲んで、店を出た。
側溝に落ちかけて僕に引き止められたり、電柱にぶつかって一生懸命謝っているのは、やっぱりなにかのギャグのつもりなのだろうか。
彼女の鼻歌に合わせていろんな犬が遠吠えを繰り返すのは、結構近所迷惑なんだろうな、とは思うけど。
「おっ、ごくろー」
それでも自分の家はわかってるらしく、見慣れた十階建てのマンションの前で、彼女はくるりとターンを決めて敬礼した。
と思ったら、おとと、とよろける。僕はあわてて彼女を抱きとめ、そのまま……
「だめーっ!!」
え?
「なっとー」
いや、そんな力ずくで振り払わなくても。で、どこへいく?
「そこで待ってなさい」
はい。
ポチのごとく立ち尽くす僕を置いて、彼女は小走りで少し向こうにあるサークル○へ。あ、また看板にぶつかって謝ってるよ。
何を買いに行ったのかな? もしかして、円くてくるくると丸めてあって、ぷうって膨らませられる……
うーん。キスで明るい家族計画はないか。
お、帰ってきた。
「はい」
なんだこれ?
「わかんない?」
そんな憐れむような目で見ないでくれよ。歯ブラシじゃないか。
「あんたのよ」
僕の?
「糸を引かないようにね。磨きなさい」
だって、水もないのに。っていうか、糸は引かない――
「仕方ないわね。いいわよ。洗面所、貸してあげるから」
いや、だから……って、え? 部屋に上げてくれるの?
「歯を磨くだけだからね」
はいはい。
「ハイは一回でいいの」
おお、彼女のにおいだ。
「洗面所はそこ。歯磨き粉は使っていいからね」
はーい。
「素直でよろしい」
大丈夫かな。ドアを頭突きで開けてったぞ。
まあいいや。あいつの家だし、どぶにはまることもないだろ。おっ、ユニットバスじゃん。ここでシャワー浴びたりしてるんだ。……結構きれいにしてるな。
がらがらぺっ。あー、すっきりした。これで糸は引かないぞっと。
おーい、歯を磨いたよー。あれ、返事がない。
ぉーぃ。
そーっとドアを開けてみると、八畳のフローリングの一角を占めるベッドの上で、彼女は気持ちよさそうに寝息を立てていた。
もこもことしたダウンを着たまま、片足をベッドからだらしなく落として。
ほのかに上気したままの頬。
しどけなく開いた、唇。
あー、もう我慢できない。
彼女の唇に、軽く、キス。
そして彼女は薄く目を開いた。
目にかかる前髪をかきあげて、僕の目をじっと見つめ――
再び目を閉じ、微笑んだ。
あれ? 何かが僕の心に引っかかる。う〜ん、いいやっ。
もう一度、今度はついばむようなキス。もちろん、糸を引いたりなんかしない。だけど――
僕はきっと、彼女にその糸で操られていたんだ。
(fin)