ラーメン屋


 湯気に曇ったガラス戸を開けると、からからと意外なくらい軽い音を立てて開いた。
 同時に暖かく湿った空気が眼鏡に叩きつけられ、視界を白くさえぎる。
 俺は構わず、鼻から大きく息を吸った。濃厚な香りが肺を通り過ぎて、胃袋を直撃する。
『蟹葉亭』
 いつも圭子と歩いている裏通りに、ひっそりと店を構えるラーメン屋だ。
 ラーメンがあんまり好きではない俺だが、この店の前まで漂うスープの香りには、なぜだか惹かれるものがあった。だから、何度か圭子も誘ったのだが――
(いやよ)
(どうしてだよ)
(だって、臭いし、汚いじゃない)
 今俺の胸いっぱいに入っているスープの香りは、確かに生臭い。
 魚介系とも、獣肉系とも少し違う。といっても、香りだけで何の出汁を使っているのかを当てることができるほど、俺は詳しくはないのだけれども。
 屋号にもあるように、蟹の殻でも使っているのだろうか。
 手を動かしながら、やぶにらみの店のおやじが陰気な視線で出迎える。初見の客が珍しいのかもしれない。俺の顔を、じろじろと見つめている。しかし、なにに納得したのか、にたりと笑って、らっしゃい、とつぶやいた。
 俺はメニューを探して、店内を見回した。テーブルが四脚にカウンターがあるだけの狭い店だ。客は、カウンターに一人とテーブルに一人。テーブルの男はコートを着たまま、顔中に汗と恍惚の表情すら浮かべて麺をすすりこんでいる。カウンターの男は、店の角、天井近くに置かれているテレビのバラエティー番組を、つまらなそうに観ていた。
 黄ばんだ、いや、油の蒸気に茶色く染まったメニューは、何とかその文字が判別できる。
『ラーメン』
『チャーシュー』
『ライス』
『ビール』
 たったそれだけの札が、ラップに包まれて壁に留められていた。
 俺はカウンターの、男の座っている場所とは椅子を三つはさんだだけの反対側に腰を下ろす。破れ、ガムテープで修繕されたスツールが、ぎしり、と軋む。
「チャーシューとビール」
 おやじは、返事もしない。しかし、あばただらけの顔がのろりとうなずいたから、注文は通ったのだろう。
 圭子――
 俺は、その名をつぶやいて、ため息をついた。この店は、圭子のマンションのすぐ近くにある。彼女の部屋を訪れるため以外に、俺がこのあたりに来る理由はない。だから、この店に一人で来ることなんか、本当はないはずなのに。
 彼女とは、もう一週間も連絡が取れない。三日前、少し心配になって、彼女の勤める会社に電話もしてみた。だが、会社にも、無断で欠勤をしていた。今日仕事が終わったあと、我慢できずに彼女のマンションを訪ねてみた。十階建てのワンルームマンション。その一階にある集合ポストには、一週間分のチラシやDMがぎっしりと詰まっていた。
 一段と濃厚なスープの香りが漂ってきた。ふと調理場を覗き込もうと身体を伸ばす。大きな寸胴なべから、白濁したスープがどんぶりに移されている。無意識にカウンターについた右手のひらに、油の浮いた化粧板の手触り。滑らかで、柔らかで。
――クスクスという忍び笑い。
(やめてよ。くすぐったい)
 すべらかな、圭子のわき腹。皮膚のすぐ下にある薄い脂肪が染み出して、俺の手のひらを吸い付ける。
 じゃ、じゃ、と、茹で上がった麺を湯きりする音が聞こえた。カウンターの向こうで、おやじが麺を、なみなみとスープを入れたどんぶりに落としていた。その上に載せるのは、白髪ねぎをひとつまみと、タッパーから取り出したとろとろのチャーシュー。チャーシューというより、煮豚だろうか。どんぶりの横に置かれた楕円の皿にも、盛り付けられる。
「おまちどう」
 まずはラーメンが、おやじの手によってカウンターを越える。それをもう一人の男が、疲れた顔をした、くたびれた作業服を着た中年男が、目だけをぎらつかせて受け取る。
 ことん、とどんぶりを置く音。続いて、俺の目の前に差し出される、チャーシューの乗った皿。ビール瓶の栓を抜く音。曇りが落ちていないままのコップ。
 この匂いだ。スープに混じる、生臭くも心をひきつける匂い。それがチャーシューから濃厚に立ち上っている。胃袋が、ぎゅうと締め付けられる。
「おやじぃ。指入ってんじゃねえか!」
 だがその食欲も、男のなじるような声に妨げられた。
「入ってねえ」
 おやじがぶっきらぼうに応える。俺もそう思う。おやじはどんぶりを、両手でささげるように持っていた。親指がどんぶりの中に入るはずがない。この男は、なにか因縁をつけようとしているのだろうか。せめて、俺がチャーシューを食べ終わるまで、待ってくれればいいのに。だが男は――
「じゃあ、これを見ろよ」
 どんぶりに割り箸を突っ込み、何かをつまみ上げた。生白い、ふやけた棒状の、何か。
 鶏の足(もみじ)だろうか。出汁に使った。そう、自分に思い込ませようとする。だけど、無理だった。
 ふやけた表面も、その色も、形も違う。何より、先端に張り付いた爪。長時間煮込まれたにもかかわらず、まだわずかに残るネイルカラー。見覚えのある色……
「ああ、すまねえ。出し殻が入ったか。すててくれ」
「かまわねえけどよ。……食えるのか?」
 男は箸を口に運んだ。何時間も煮込まれた指は、いっそう潤(ほと)びるようにほぐれ――
(痛い!バカ、噛まないでよ)
(お前の指、とてもおいしそうだ)
――手入れの行き届いた指先に輝く、シャイニールビーのネイルカラー。
(なぁに?おいしそうなのは、指だけ?)
(まさか。ぜんぶさ)
――嬌声。
 俺は割り箸を割ると、チャーシューをつまんだ。妙に白っぽい、脂肪とゼラチンでとろりとした、肉。
「おやじ。このチャーシュー。何の肉だ?」
 俺の問いかけに、カウンターの男の動きが凍りついた。
 後ろのほうで、もう一人がどんぶりを机に置く音が、奇妙なほど響く。
 そしておやじは、にたぁと笑った。
「もちろん、決まってまさぁ」

 ブタですよ。

 俺は箸を、口に運ぶ。
 前歯ににちゃりと絡みつく、繊維。口腔を覆いつくす、滑らかな脂。
 うまい。やっぱり。思ったとおりだ。

「おやじ。ラーメンも一杯くれ」
「へい」

(お前を食べてしまいたいよ)
(ばかぁ)

 ――圭子


(fin)
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