千年の絆

 そのとき俺は、炎の中にいた。


 腕の中に女子(おなご)を掻き抱き、のどを刺す煙に咽(むせ)びながら、轟と啼く熱気に顔を灼(や)きながら、劫火の向こうへと抜ける道を探していた。
「おのれっ! 木曾の山猿めがっ!」
 たとえその呪詛が矢となりて、彼奴(きゃつ)の喉元に刺さろうとも、我が館を嘗め尽くさんとする炎から抜け出す術(すべ)はない。
 いや、この程度の炎など、焼けるまでに駆け抜ければどうということはない。このような華奢な女子一人抱えたとて、たかだか二、三丈。熱いと言わさぬ間に、抜けてみせる。
 しかし館の周りには、夜討ち焼き討ちをかけてきたむつけき武士(もののふ)どもが、いまだ鬨(とき)の声を上げている。炎の轟きの狭間から、その蛮声が聞こえる。
 たとえ抜けえたところで、俺はもちろん殺されよう。しかしこの娘は。
 京の女子の柔い肌など知らぬ山猿どもがどのような蛮行に及ぶか、考えるまでもない。
 腕に力を込めればさらに力を込めてすがりつき返してくる。それがなおさら愛おしい。
 たとえ指一本たりとも、彼奴らに触れさせるものか。
 灼熱をはらんだ煙が叩きつけられる。しかし、俺の肩に伝わる彼女の涙のほうが、よほど熱い。
 赫(あか)く光る火の粉が、むき出しのせなに、うでに、降りそそぐ。しかし、俺に必死にしがみつき、恐れに震える彼女の指のほうが、よほど痛い。
「よいか、忘れるな!」
 俺は、彼女の耳元で叫んだ。
 金赤の照り返しで飾られた黒髪が、わずかに擡(もた)げられた。
「千の刻が過ぎようとも、決してお前を忘れはせぬ」
 屋根が抜けたのか、濃くなる一方だった煙が渦を巻き、一瞬晴れた。白粉(おしろい)が涙と汗で流れてしまっても、その愛らしさに変わりはない。
「よいか、忘れるな」
 煙に燻(いぶ)されてもまだ艶(つや)やかな濡れ色の目を見つめながら、さらに口を開く。
「万の輪廻を経ようとも、必ずお前を見つけてみせる」
 天へと昇る煙の後を追うように、炎が吹き付けてきた。彼女は声にならぬ悲鳴を上げて、俺の胸に顔をうずめる。俺の下で何度も乱れさせてきたぬばたまの髪が、ちりちりと音を立てて燃える。
「よいかっ、忘れるなーっ!」
 焼け崩れた梁(うつはり)が、俺の上に……



 俺は一瞬の幻夢から突然醒めた。それに陥ったときと同様に。
 友人らしき女と、笑いさざめいている彼女を一目見た瞬間。
 俺はすべてを思い出していた。
(見つけた……)
 思い出したのは、炎に巻かれた記憶だけではない。
 幾度も、幾度も、彼女と巡り合うことなく、無為に繰り返されてきた転生の記憶。
 ただ、生きるために必死だった今生(こんじょう)の記憶だけではなく、ただ、生きて死ぬるだけだったそれらの記憶ですら、今この瞬間のためにあったのだとすれば、決して無駄ではない。
(やっと会えた)
 濡れ羽色だった髪は、亜麻色に染め替えられていた。眉墨(まゆずみ)だけは刷(は)いているようだが、白粉も叩かず、鉄漿(おはぐろ)も差してはいない。
 しかし、そのようなものは、どうでもよいことだ。俺は、彼女の殻を愛したわけではない。火に焼ければ、焦げて失われてしまう身体など。
 俺が愛したのは、彼女の魂。
 だからこそ、いかに見目(みめ)が変わろうとも、ひとめで彼女が“彼女”だとわかったのだ。
 しかし俺は、すぐに彼女に近づいたりしなかった。
 彼女も、俺と同じく、俺の魂を愛してくれたのだと信じている。
 しかし――
 万の転生を繰り返した記憶が、死すらも恐れぬ俺の心を、臆病にさせる。
 彼女は本当に彼女なのか。いや、それは間違いない。この俺自身の魂に懸けて、断言できる。
 彼女は、俺を、俺だと、気づいてくれるだろうか……
 それでも俺は、彼女に近づかずにはいられなかった。ゆっくりと、ゆっくりと。
 そのとき、俺の気配を感じ取ってくれたのだろうか、彼女が俺の方に振り向いた。
 これだけは変わらない、濡れ色の瞳。それが俺と目のあった瞬間、大きく見開かれた。
 歓喜が、俺の身体を震わせる。やはり、気づいてくれた。ついに、千年前の誓いは果たされた。
 彼女は立ち上がり――


   †


「ギャ――――!! ばかミホッ、あんた何してんのよーっ!」
 あたしは思わず悲鳴を上げた。
「何って、ゴ――」
「ばかばかっ、それ、めっちゃお気にのスリッパなのにぃ」
 右手にスリッパを掴んだままフローリングの床に四つんばいになっているミホに、あたしはスリッパの片割れを投げつけた。
 ミホの両親が旅行でいなくて不安だから泊まりにきてくれっていうから、それできてやったのに。
 何でよりによって、あたしの一番のお気に入りのムートンのスリッパであんなこと……
「ごめんって、返すわよ」
 全然悪びれた様子のないミホは、そっとスリッパを持ち上げると、顔をしかめた。
「うわぁ、さすがムートン、すごい威力だわ」
「な……なによ」
「……みる?」
「ぜーったいに嫌っ!」
 もう泣きそうだ。何でこの部屋――
「何でこんなに出んのよーっ!?」
 二人で漫画を読んでれば、かさかさ。
 お菓子をつまんでれば、わさわさ。
 久しぶりのお泊り会だから、下ろしたてのパジャマも持ってきたのに、着替えようと思ったらその中からも。
「だいたい、何であんたはそんなに平気な顔をしてんのっ?」
 ミホは床に寝っころがっているときに、目の前をそいつが通りかかっても、びくともしない。信じられない。絶対にこいつは女子(じょし)じゃない。
「このマンション、一階が居酒屋じゃない。換気口かなにかが繋がってんのよねぇ。いくらやっつけても、すぐにわいて出るから、慣れちゃった」
 そう言っておきらくに笑うミホの背後の壁にも、また一匹。
「もう嫌だぁ。あたし帰るからね」
「大丈夫だって。あんたがあんまり騒ぐから一匹やっつけちゃったけど、こいつら、案外きれい好きなんだよ。いつも身づくろいしてるし。それによく見たら、結構かわゆい……」
「かわいくなーいっ!」
 何でこいつはあんなものの肩を持ってんのよ。ばっかじゃないの? こいつら、てかてかしてるし、しゃかしゃかすばやいし、飛ぶし。最悪だよ。大体、かわゆいって言った口と、叩き潰した右手の持ち主が同じって、どういうこと?
 ……あれ?
「ねえ、ミホ」
「ん? なに?」
 何がおもしろいのか、うわぁと眉を顰(ひそ)めながらスリッパの下を覗き込んでいたミホが、顔を上げた。亜麻色の髪が、揺れる。
「あんた、何で泣いてるの?」
「え?」
 呆気にとられたミホの顔を、彼女自身の指が撫でる。中指の先を濡らすのは、まぎれもない、涙。
 ミホはただ、それをじっと見つめていた。
「……ミホ?」
「あれ? なんでだろ。別に、悲しいわけじゃないのに……」
 そう言って微笑む頬を、流れ続ける、涙。
「へんだねー」
 変なのは、あんたのほうよ、そう言いかけて、あたしは自分の目をこすった。
 ミホに重なって、黒い髪の、きれいな着物を着た女の人が見えた気がした。
「あ、スリッパ。ちゃんと洗って返すからね」
「ううん、いいの……? うきゃ――――!?」
 ぼおっとした隙に手渡されたものを見て、あたしは再び悲鳴を上げた。
 あたしのお気にのスリッパの裏にへばりつく――
「ばかミホ――――!」
「だって、いいって言ったじゃない」
「いらないって言ったの! もう帰るぅ……」



(ナレーション)

 二人をつなぐ赤い絆は、幾星霜経ようとも、途切れることはない。
 だが、手繰り寄せたと思えば、また離れ、近づいたと思えば、すれ違う。
 糸を見ることの叶わぬ、人の身なれば。
 
 あなたの傍にいる“それ”は、前世で契った魂の器かもしれない。
 それでもあなたは、




 バルサンたきますか?






ゴキブリ (fin)
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