白いさくら
しんと冴えきった空気の中、月の光が、青く地上を照らしていた。
風すらもその声をひそめる中、きしり、きしりと雪をふむ音だけが、そっと雪に覆われた地面を伝い降りていた。
緩やかな斜面を、雪にも負けぬくらいに蒼い素足が上っていく。
足の運びにゆれる裾、両手でつかんでしまえそうなほどに細い腰、まだ柔らかな曲線を描いてはいない胸、ノースリーブの肩から伸びる腕。
今が初夏であるならば、なんら違和感のない格好をした少女。
少女は、一歩、一歩、丘を登ってゆく。
彼女がおこした雪の波紋だけが、彼女の後ろに残されてゆく。月明かりの下、なおも黒い彼女の髪が、一歩、また一歩、揺れる。
もう、どれくらいそうやって歩き続けているのだろうか。もし彼女が振り返れば、眼下に広がる暗い平野まで、途切れることなく続く黒い線を見ることができるだろう。
しかし少女は振り返ることもなく、進む先を見上げることもなく、ただ一歩、一歩、足を進めてゆく。
そんな少女の歩みも、ついに終わりを迎える。足を止めたのは、まるで屍衣に包まれた墓標のように、あちらこちらから雪の塔が天へ向かって手を伸ばす、そんな場所だった。
少女は初めてゆっくりと振り返り、そして初めて――
顔を上げた。
そして初めて――
瞑っていたまぶたを開いた。
月の光が、少女の顔を蒼く照らす。硬く突き固めた雪のような肌が、その光を淡く反射する。まぶたの奥の、黒曜石をはめ込んだような瞳。氷から削りだしたような、冷たい美しさをたたえた鼻筋。無彩色の世界で、ここだけ彩りを見せる口元。
その硬く閉じられていた唇が、わずかな隙間を空ける。そこから、ふっ、と吐息が漏れる。目が再び閉じられて、代わりに口が大きく開かれた。
少女は、身体中で大きく息を吸い込んだ。
――さくら さくら
凛と澄んだ声が、その小さく細い体からあふれ出した。その歌声は、冷たく凍りついた風を、優しく震わせ、溶かす。
――のやまもさとも みわたすかぎり
彼女を包む世界が、変貌してゆく。はだしの足元を埋める雪がゆらりと揺れて姿を隠し、代わりに緑に萌える若草が、よみがえった風にしなる。その変化は、同心円の中心に彼女をおいて、世界に広がってゆく。
――かすみかくもか あさひににおう
若草の穂先に点った露から光があふれ、わきたつ。無機質に透き通っていた空気が、柔らかな澱みをはらんで輝く。振り仰げば、空はいつしか青く、頭上にあった月は、まるで太陽のようだ。
――さくら さくら はなざかり
そして、少女は笑った。淡く甘い香りが彼女の心をさらに浮き立たせる。白かった彼女の頬は、今は桜色に染まり、そして。
満開の桜の木が、少女を取り囲んでいた。
優しい風が、彼女の髪をなびかせる。風上に顔を向け、心地よさそうに目を細めた少女は、両手を天に広げて全ての光景を抱きしめようとするように、くるくると舞った。
西暦2××8年。局地的な紛争に端を発した戦争は、すでに末期的な相を示していた人口過剰と、慢性的な食糧不足からくる飢えに苛まれていた人々の心に、撃針を打ち込んだ。
すでに化石燃料は枯渇して久しく、わずかな代替エネルギーも、一部の特権的な国家の享楽を満たすために、そのほとんどが費やされていた。
そのころには、もう世界の八割を超える国々が、核兵器を持っていた。まるでいっぱいに引き絞られた弓のように張り詰めた抑止力は、限定的な使用という名目のもとに解き放たれた。
――さくら さくら
ざんと風がなる。無数の花びらが、少女の上に降り注ぐ。白いワンピースの裾がなびき、歌声に、嬉しそうな笑い声が混じる。
――やよいのくもは みわたすかぎり
舞う花びらはますますその勢いを増し、少女の周りで乱舞する。見渡す限り桜色の世界の中で、少女は一人歌い、踊る。
――かすみかくもか においぞいずる
花びらの隙間から、眼下の景色が見渡せる。やはり桜色に染まった霞をとおして、これも桜色に埋め尽くされた平野がのぞく。
――いざやいざや みにゆかん
そのとき、桜の花びらのトンネルが、ぎゅうと音を立てて窄まり、そして、発散した。少女は、胸の前で花びらを受ける形に手のひらを開いたまま、動きを止めた。花びらは淡く光を滲ませながら、漂白されてゆく。
少女は哀惜を双眸にたたえ、周囲を見渡す。花びらは今、ふぶく雪の欠片に姿を変え、桜の木は、花の代わりに白い雪の結晶を、枝々に咲かせていた。
少女のまなじりから、一筋の涙が零れ落ちる。それは、景色と同じく色を失い行く頬を伝い落ちながら冷たく凍りつく。最後に、桜に向かって少女は手を差し伸べようとし、そして、花びらのように薄れて消えた……
凍えるような宇宙に一人残された『ガイア』は、夢を見る。
己の育んだ生命が、その生を謳歌していた輝かしい時代を。
それは、泡沫(うたかた)のように浮かんでは、世界を照らし、そしてはじけて消える。
再び地上が、新たな生命で満ち溢れる未来(そのとき)まで。
光を失った月のもとで、白く結晶化した桜の木だけが、少女の残した足跡を見下ろしていた。
それもまた――
(fin)