手紙




「郵便でーす」
 明るい、若々しい声が、秋らしい、のどかな空に響いた。
 私は、庭の小さなハーブ畑に水をやっていた手を止めて、振り返える。
「ごくろうさま。いいお天気ね」
 この春から、私のところへ手紙を届けてくれている郵便屋さん。
「そうですね。ずっとこんな日が続いたらいいんですけどね。はい、お手紙です」
「ありがとう。お茶でもいかが?」
「ありがとうございます。でもまだ配達が残っていますから」
 いつものやりとり。
「そう、残念。じゃあ、また――」
「ええ、また明日。このくらいの時間にまた来ます」
 ニッコリと笑うと、自転車にまたがった郵便屋さんは、でこぼこの坂道を、ゆっくりと下っていった。
 その後ろ姿が竹やぶの陰に隠れるまで見送って、私は家に足を向けた。
 こんな田舎には珍しい瀟洒な輸入住宅は、今はいないお父様の自慢の家。白いペンキで塗られた壁が、秋の日差しに輝いている。
 そして私は、玄関をくぐり、リビングにあるマントルピースの前で、改めて手紙をかざす。そして、鼻先まで持ち上げたその匂いをそっと嗅ぐ。
 くすりと、ひとりでに笑みがこぼれた。あの人が、手紙ごとにいろんなフレグランスをつけてくれたのは、もう三年も前のことなのに。今はもう、紙とインクと封蝋の匂いしかしないと分かっているのに。
 そのときの習慣は、今では人にあまり見せられない癖となって、私の身体に残っている。
 あら。封筒を変えたのね。和紙に特有の繊維が、あちこちに透けて見える。でも、宛名の几帳面な楷書は、あの人と手紙のやりとりを始めてから少しも変わらない。
 封筒を裏返して見る。やっぱりずっと変わらない、あの人の住所と名前。
 ふと、それらが愛しくなって、そっと撫でてみる。あの人につながり、そしてあの人そのものでもある文字たち。
 そうだわ。ポプリがそろそろいい頃だもの。今度はあれを入れてあげましょう。ラベンダーとレモングラスが香る、私の自慢だから。
 その思い付きに気分がよくなって、私はハサミを手に取り、その刃を封筒に当てる。
 端っこではなく、真ん中に。
 中の便箋ごと、二つに――
 さらに重ねて四つ切り。そして八つ切り。
 お父様が愛用していたオイルライターで、その紙束に火を移し、暖炉の中に投げ入れる。
 春からずっとまきをくべていない暖炉の中は、そんな手紙の燃えかすが、うずたかく積もっていた。



 がさりという音に、私は目をあげた。
 少し肌寒いと思ったら、暖炉にくべたまきが崩れて、火が弱くなってしまっている。
 頑張りすぎたかしら。
 そうひとりごちて、もう一度手元に視線を落とす。年が明けてからとりくみ始めたキルトが思ったより楽しくて、針を動かしていると思わず夢中になってしまう。
 でも、もう年かしらね。
 首筋を自分でもみほぐしながら、少し寂しくもなる。若い頃は、一日中刺繍を刺していても平気だったのに。
 まきを二本ほど放り込んでから時計を見る。
 もうこんな時間。
 そう思った途端に、ノッカーの音が響いた。
「はぁい。……もうきたの? 大変」
 玄関の、オークの扉を開くと、紺のジャンパーに白い雪をちりばめた郵便屋さんが、真っ赤な顔をして立っていた。
「ごめんなさい。まだ書いていないのよ。どうしましょう」
「いいですよ。待ってますから」
 日に焼けて、すっかり男っぽくなった郵便屋さんが、白い息を吐きながら笑う。
「でも、こんなに寒いのに……。そうだ。いま、林檎を焼いているの。よかったら召し上がっていきません?その間に急いで書きますから」
「そうですか? じゃあ、お言葉に甘えて」
 さらに相好を崩した郵便屋さんを、リビングに案内する。
「お子さんは? お元気?」
「ええ。おばあちゃんにランドセルを買ってもらって、一日中背負ってはしゃいでいます」
 暖炉のオーブンから焼林檎を取り出すと、ナイフをいれてバターを乗せる。仕上げに香りのよいブランデーをひと振り。
「もう小学校なの? 早いわねぇ。わたしも年をとるはずだわね。さあ、どうぞ。紅茶でいいかしら」
「あ、お構いなく」
 ガラスのポットにお湯を注いで、紅茶の葉が踊るのをしばらく眺め、二つのカップに注ぐ。
 一つはソファーの郵便屋さんに。
 一つはライティングデスクの上に。
 そして私は、引き出しから便箋を取り出して、あの人への返事をしたため始めた。
 昔は、便箋や封筒にいろいろ趣向を凝らしたものだし、文面も、様々な思いを綴ったものだけど。今は――
 便箋も封筒も、既製品のありきたりなものだし。
 愛用の万年筆が書き記すのも、たった一行。
 その一行に、ありったけの想いを込める。
 そして、封筒の表書き。
 あの人の住所に、無事届くように願いを。あの人の名前に、すべての愛を。
 裏書き。私はここにいる。この文字たちが、そう伝えてくれる。
 まだ乾いていないインクをなめし革に吸わせてから、便箋を丁寧に折り畳み、封筒に入れて蝋を垂らす。
 さあできた。
「お待たせ」
「ああ、できましたか」
 郵便屋さんは最後の、大きめの一切れを頬張ると、慌てて立ち上がった。
「あら、ごめんなさい。ゆっくり召し上がっていただいたら良かったのに」
「――いえ、まだ配達が残っていますから」
「相変わらず仕事熱心ね」
 十年以上前から、何度も聞いたその言葉。
「じゃあ、お願いね」
 書き上げたばかりの手紙を、切手代のコインを添えて、郵便屋さんに手渡す。
「はい、確かに。ご馳走様でした」
 郵便屋さんは、大事そうに手紙を革の鞄に納めると、ジャンパーの袖に手を通し、あったかいリビングを出ていった。
 どんよりとした雲の下、雪がちらちらと舞い降りていた。
 リビングに戻った時、私の紅茶は、もう湯気を立てていなかった。



 春が来て、夏が来て、また秋が来て。
 幾多の季節が、私と私の家のまわりを巡り続ける。
 鏡に映る、白髪交じりの頭をみて、染めようかしらと思ったこともあった。
 でも、あの人と会うわけでもない。写真を同封するわけでもない。
 私は私のまま、手紙を書き続ける。
 年が明け、また、年が暮れて。
 静かだったこの辺りも開発が進み、道路は整備され、きれいな住宅が建ち並ぶようになった。
 お父様の自慢だったこの家は、壁のペンキが剥がれ落ち、バルコニーの柱は朽ちて、傾いてしまった。
 だけど私の自慢のこの庭は、花の絶えることはなく、道行く人の足を、しばしの間止める。
「郵便でーす」
 いつもと同じ、違う声。
「あら、いつもの方は?」
「四郷さんですか? あの人もうすぐ定年なんで、内勤になったんですよ」
「……そう」
 四郷さんというのね。
 私は、あの郵便屋さんの名前すら知らなかった。
 週に一度か二度、私にあの人の手紙を届け、その返信を、必ず次の日に取りに来てくれた。
 お孫さんが生まれたと、嬉しそうに話してくれたのは、いつだったかしら。
「じゃあ、これ、お手紙です」
「ありがとう。ねえ、よかったら――」
「ああ、分かってます。四郷さんから聞いてます。明日また取りに来ますから」
 そういうと、まだ若くて名前も知らない郵便屋さんは、バイクに乗って去っていった。
 慌ただしいこと。ゆっくりお茶にも誘えないじゃない。
 すっかり手放せなくなった老眼鏡越しに封筒を見る。これだけは、ずっと変わらないあの人の文字。
 新しい郵便屋さんは待ってくれそうにないから、今日中に返事を書いておいた方がいいかしらね。
 そしてまた、時は流れ始める。
 もう使わなくなった暖炉に、うずたかく灰を積み上げながら。



「おばあちゃん。郵便でーす」
 久しぶりに、いつもの郵便屋さんの声がした。
 一年で、いちばん花が咲き乱れる季節。
 庭の真ん中においたエクステリアチェアに腰掛けて、ぽかぽかとした陽気を楽しんでいた私のところまで、郵便屋さんが手紙を持って来てくれた。
 まだ名前は知らないけれど、笑って世間話をしてくれるようになった、もうあんまり若くない郵便屋さんの表情は、なぜか硬い。
「どうしたのかしら?」
「手紙が来てるよ」
 それはそうでしょう。それが郵便屋さんのお仕事なんだから。
 だけど、差し出された封書を受け取って、私は戸惑った。
 いつもと違う、つるりとした手触りの封筒。
 眼鏡の位置を直して、掲げるように目を凝らす。
 黒く縁取りされた封筒の真ん中に、薄墨で書かれた、あの人の字ではない、私の名前。
 そう、なのね……
「おばあちゃん……」
 心配そうな、郵便屋さんの声。
「ありがとうね。また明日、いつものように、ね」
 よっこらしょと、掛け声をかけて椅子から降りると、いうことを聞かなくなった脚を励まして、玄関に向かう。
「大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫よ」
 よいしょ、よいしょと、一歩、一歩。
 むせ返るような花の香りにつつまれて、ゆっくりと、ゆっくりと。
 ずっと、私とともに生きてくれた庭から、ずっと、私を守ってくれた家へ。
 そして、いつものように切り刻んだ封筒を、暖炉で燃やす。
 リビングのひんやりとした空気に抱かれて、便箋を拡げ、万年筆を手に取る。
 これまで何度も、本当に数えきれないほど、何度も書いてきた文句。
 そしてたぶん、いいえ、きっと最後になる文句。
 それをいまいちど、書きましょう。



 さっきの手紙のご用事なぁに


             まど みちお・詞
            『やぎさんゆうびん』より


手紙・イラスト


(fin)
[トップへ][短編メニューへ]

ランキングに参加しています
小説・詩ランキング
↑クリックをお願いします↑